日本の潜伏キリシタン
このプロジェクトで行われたインタビューは、文化的に混成された五島列島の新たなオーラルヒストリーの一部を示しています。それは、地域と密接に絡み合いながら育まれた集落の歴史と文化を、日本の端に位置する島に住む人々が詳細に語ることによって、日本とアジア両方の歴史についての視点を提供します。インタビュー記録から明らかなように、日本の潜伏・カクレ(隠れ)キリシタンは特殊で、複数の時間的・地理的・社会的形態の中に存在しています。当然ながら、迫害期の社会組織と宗教実践の形態は、非迫害期に機能していた社会組織と存在論的信仰の形態とは異なります。
したがって、現代の学者は潜伏キリシタンについて、次の2つの日本語の用語を使って表記していることに留意してください。
「潜伏キリシタン」1873年以前の潜伏キリシタンを指す
「カクレ(隠れ)キリシタン」禁教が解除された後もカトリックに復帰しなかった、1873年から現代までの隠れキリシタンを指す
一方、カクレキリシタンの集落の地域的および時間的な違いは、長年にわたって多くの研究の主題となってきました。
フランスの宣教会が潜伏キリシタンの集落に初めて接触したのは1860年代のことでした。クリスタル・ウィーランによれば、彼らは、それぞれの集落の元の指導者がフランシスコ会、イエズス会、またはドミニコ会のうち、どこの出身かを観察し、それに応じて、キリシタン、バテレン、またはドジオなど、さまざまな名称を使用していたようです。
田北は、こうしたキリシタンを上五島では「古帳(ふるちょう)」と呼び、中部(おそらく奈留島)地域では「元帳(もとちょう)」と呼んだと書いています。
近年、日本の歴史家であり宗教学者の宮崎賢太郎は、カクレキリシタン(19世紀に宣教師が帰還したため、西洋的な意味でのカトリック教徒にはならなかった)は、彼らの信仰が日本の伝統的な宗教と混ざり合って、かなり日本独特なものとなり、キリスト教から疎遠になったため、カトリック信徒になれなかったり、信徒になることを断られたりすることもあると書いています。しかし、このプロジェクトで発表された新しい研究は、カクレキリシタンとローマ・カトリックの間の影響関係が今日まで続いているという、より最近の立場を再確認する証拠を提供しています。
16世紀および17世紀のイエズス会の宣教師たちは、支配階級に積極的に働きかける形での伝道が、日本の潜在的なキリスト教の将来に影響を与えることを期待していました。それにもかかわらず、1600年代初頭から信仰を地下に浸透させ、世代を超えてそれを効果的に伝えることに成功したのは、主に庶民たちでした。彼らは、徳川時代(1603年から1868年)の250年ほどにわたって粛々と秘密結社を維持し、主に武士階級の構想により日本帝国の幕が明けた明治時代(1868年から1912年)に再び信教の自由を実現しました。このオーラルヒストリー・プロジェクトの焦点は、こうしたカトリックとカクレキリシタンの信仰が、これまでの迫害から出現したことです。インタビューでは主に、1860年代にフランス宣教会(MEP・パリ外国宣教者会)が長崎に来た後の人々の経験を調べています。
歴史家の片岡弥吉は、地下組織のキリスト教グループが存続し続ける主な理由の一つは、長崎北部の外海地域の地理で、山が海に落ち込むように続く地形であり、利用できる土地が狭く、交通が不便で、彼らが潜伏しやすかったからだと述べています。ドロテア・フィルスは、外海ではキリスト教徒が存在してきた一世紀にわたって宣教師との接触が多く、そのため「九州の他の地域と比べて、外海の宗教「カトリック風の潜伏キリシタン」となったのは明らかである…」と付け加えました。
「聖人」を崇拝する潜伏キリシタンの子孫であるカトリック信徒の間でも、混淆的な信仰を識別することは可能です。枯松(かれまつ)神社は1937年に外海に建てられ、自身も日本で殉教したバスチャン(セバスチャンが由来)の指導者と言われるジワンを祀った神社です。枯松神社は、殉教したキリシタンを祀る、日本に三つしかない神社のうちの一つです。
外海地方からのキリシタンの移住(歴史的背景における五島)は、潜伏・カクレキリシタンの歴史に特に強い影響を与えました。18世紀終わり、長崎の北部にある外海地方は人口過密で食べるものも十分にないと認識されていたのに対し、五島列島には広い土地がありました。大村藩主は人口を管理するため、各家で長男のみを育てることを命じました。言い換えれば、領内の農民は、次男以降が生まれると子殺しが必要になりました。
潜伏キリシタンたちが直面した抑圧は、よく知られているポルトガルとスペインの宣教師たちに限ったことではありません。潜伏キリシタンがカトリック、カクレ(ハナレ)、あるいは仏教・神道のコミュニティに変化する際に直面した困難については、さまざまな資料が証明しています。たとえば、高山文彦による最近の著書『生き抜け、その日のために:長崎の被差別部落とキリシタン』では、いわゆる部落民として差別され追放された人々の子孫の実体験について論じています。小さな浦上の被差別部落で育った中尾貫という男性が、教師になるために五島列島に渡り、そこで目にした驚くべき差別の様子が説明されています。中尾は1950年4月にこの島に移住し、9年間を過ごしました。ほとんどの時間をカクレキリシタンのコミュニティで過ごしましたが、このコミュニティが実際にカクレのコミュニティなのか、それともカトリックなのかについては曖昧です。中尾は、彼らがボロボロの新約聖書を使って聖書を読み、その様子はまるで彼らがカトリック信徒のように見えると言及しています。しかし、中尾の話で印象的なのは、彼が教えているこの地域の子供たちが、彼が子供時代を過ごした浦上の部落よりもひどい差別に苦しんでいたと述べていることです。
この子らは、あのころの自分たちのように差別をうけているのかもしれない。いや、もっとひどい差別をうけているのかもしれない。
潜伏キリシタンの子孫は現在、多様な集団となっています。先祖が19世紀にフランス宣教会に出会ってからローマ・カトリックの信徒となり、その信仰を続けている人もいれば、最近になってローマ・カトリック教徒になった人もいます。
翻訳:坂谷伸子と大崎五月