A painting in the manuscript of roughly one dozen samurai mingling about on the street gossiping with one another.

実録本:近世日本のスキャンダル・ゴシップ・噂話アンゲーリカ・コッホ(日本語訳:シュミット堀佐知)

真実はトラブルのもと

それにしても、なぜこの物語は、実際に起きた事件に基づくというだけで、当時の日本でそれほど慎重を要すものだったのであろうか。現代のわれわれにとって、真実性や史実に関する情報は、恐るべきものであるどころか、歓迎すべきものですらある。しかしながら、庶民の耳に入る情報を制限し、社会の風紀を乱しかねない話の拡散を未然に防ぐことは、徳川幕府の権力者たちにとって、非常に重要な政策の一つだったのだ。その背景にあったのは、商業出版産業の誕生と発展に従い、幕府がそれまで以上に情報の発信と享受に敏感になっており、監視の目をより光らせるようになった、という事情だ。そして、1650年代以降、江戸・京都・大阪の三都では、軍記もの、キリシタンもの、暦もの、艶本、そして、われわれの最大の関心である、実際に起きた事件の記録も、法規制の対象になった。実際、1673年に江戸で公布された禁止令によれば、「珍敷事」や「諸人迷惑仕候義」とみなされた出版物は、すべて規制の対象になりえたのである。

『化物太平記』(1804年)は、豊臣秀吉をヘビの姿に描く(鎧兜の紋でそうと分かる)という不敬のため、発禁処分となった(国会図書館蔵)。

これは、特定の話題に関わるテクストが、一般向けの出版物として流通させることがタブーになったことを意味する。タブーとなった話題の第一番目のカテゴリーは、幕府、幕府の役人、大名、家臣に関するもので、そのような記事をお上の許可なく出版・配布した場合、違反者が処罰されることもあった。その最も早い例は17世紀のケースで、初代徳川将軍・家康の手紙の複写と、諸国巡見使に随行した人物が見聞した視察の詳細を二冊にまとめた写本が、出版規制の対象となった。 二番目は、幕府のお触れが「風説・噂事」「浮説」「珍しき物」「虚説」「無根」と断じたもの――デマ・憶測、心中に関するゴシップ、敵討ちなど――つまり、一般大衆の好奇心をそそる様々なスキャンダルの記述である。三番目は艶本で、テクストの内容が真実か虚構かに関わらず、「風俗之為にもよろしからざる」という理由で、出版規制の対象になった(特に1722年以降に顕著)。しかし、その後艶本の出版の勢いが減少したわけではなく、この禁止令はあまり功を奏さなかったと言えるだろう。

武家の家系に関する基本情報は、幕府の規制にも関わらず、公共出版物を通して簡単に入手することができた。江戸で頻繁に刊行された『武鑑』はその一例で、諸大名の家紋や行列道具などが記載された。図は正徳四年(1714年)版の米沢上杉氏のもの(国会図書館蔵)。

イェール蔵の写本に描かれた禁忌の物語

われわれが考察しているこの写本も、複数の理由で、当時の禁令に抵触したであろうことは確かだ。まず、この作品には性愛に関わる内容が含まれており、男同士のカップルが互いの腕の中で一夜を共にする場面もある。ただそこで重要なのは、彼らが軒並み米沢藩大名に仕える中堅レベルの武士であり、その家柄もはっきりと言及されているという点だ。身分差に敏感な武士たちにとって、彼らの家柄は神聖で重要な意味を持つもので、幕府の認めた公的文書や武家の私的な一族の記録以外の文脈において、みだりに武士の家柄について言及するのは不敬である、と見なされた可能性がある。たとえば、1722年に公布された出版規制条例の中でも、「人々家筋先祖の事などを、彼是相違(かれこれそうい)の段共新作の書物に書顕し、世上流布」することは、ご法度だとされた。 また、お上がこの衆道物語を、さらに不敬なものと断じたであろう理由がある。それは、全知の語り手・地蔵菩薩が、当時の米沢藩士の振舞いを、「末世にして器量うとく、恋の心ばかりにて忠の道無きゆえ、鳶烏の出入りたるに異ならず」と、辛辣に描写した上、彼らがかつては高名であった士族の堕落した末裔だ、と酷評していることである。

写本の挿絵も、米沢藩士の家紋が描かれているため、同じく禁令に抵触したと思われる。実際、18世紀末までには、登場人物の家柄を家紋などで表した黄表紙や浮世絵は、出版差し止めや制限の対象になったのである。

しかしながら、『衆道通夜物語』が犯した最大のタブーは、スキャンダルや人々の好奇心をそそる噂話(米沢藩士が別の米沢藩士を白昼堂々斬殺した事件は、その好例であろう)を書き立てたり、流布させたりしてはいけないという幕府のお触れに、真っ向から反抗していることだ。18世紀初期の米沢における出版規制の実態は、まだ完全には把握できていないものの、当時の役人たちが、 この写本の内容を問題視したであろうことは疑うべくもない。

情報規制は情報隠蔽になったか

情事の速報を伝える瓦版を売り歩く読売の図。『江戸生艶気蒲焼』(1785年)より(国会図書館蔵)。

このような幕府の取り締まりがあったからと言って、近世日本社会から報道や伝聞が消えてなくなったわけではない。情報規制は情報隠蔽を意味しておらず、この写本は、まさにその証拠である。そして、起きたばかりの出来事を迅速に人々に知らしめる手段は、出版だけではなかった。例えば、読売と呼ばれる行商人たちは、庶民の興味を引くような、さまざまな速報記事の見出しを読みあげながら、安価に作成された木版刷りの瓦版を売り歩いた。瓦版が扱うトピックは、大坂の陣(1614-15年)や敵討ち、心中、地震、人魚や化け物の目撃事件、男が女または女が男に変身した事件、頭が二つある赤ん坊の誕生、象やラクダなどの見世物、幕府の鷹狩遠征、そしてペリー提督による黒船来航(1853-54年)などである。

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瓦版以外の特ダネ情報源

講釈師志道軒が古戦物語の口演をしている図(1750年ごろ)(ボストン美術館ウィリアム・スタージス・ビゲロー・コレクション蔵)。

講釈師たちも、時事ネタやゴシップを庶民に伝える役割を果たした。 時には、そのような講釈は書き起こされ、安価な小冊子として売られたり、講釈小屋でのくじの景品として配られたり、貸本屋を通して貸し出されたりした。近世におけるもっとも大胆不敵な弁士には馬場文耕がいる。彼は、幕府が扱っていた裁判を批判する内容の口演を行った上、そのネタを冊子にまとめ、一冊三百文で大安売りしたため、死刑になったのである。

歌舞伎や人形浄瑠璃の世界でも、敵討ち・醜聞・心中などで世間が騒然とすると、数週間後にはその事件を脚色した芝居(設定や人物名は多少変えてあるが)が製作・上演された。そして街では、時事ネタを風刺する落書(らくしょ)・落首(らくしゅ)・似顔絵が建物の外壁に書かれたり、張り札として建物の戸や壁に貼られたり、落とし文として拡散されたりした。

また、貴賎を問わず、人々はよく時事ネタを細かく日記に書き留めた。江戸城の天井につけられた不思議な足跡、不吉な彗星、どういう訳か枝から貝が芽吹く桜の樹、江戸城に現れた鬼のような夜行性の鳥(もしくはただのフクロウ)など、幕府が風説として禁じるような内容も、ちゃんと記録されてきたのである。

家の外壁に描かれた落書き。『教訓雑長持』(1752年)より。図の中心にある落書きは恋人同士の愛の誓いで、「長二郎とおまつ 一心命」とある(神戸大学図書館蔵)。

妻に暗殺された将軍?

『江戸時代落書類聚』(1915年)に再現された、1840年代に施行された天保の改革を風刺した落書き。三本の角を生やした「海角(かいかく:「改革」のもじり)という悪獣」は、天保の改革の仕掛け人・老中水野忠邦の家紋である永楽銭模様の着物をまとっている(国会図書館蔵)。

このように、イェール蔵『衆道』の写本が作られた1713年、三都は時事ネタ・好奇心を煽る話題・噂話などで溢れかえっていたのだが、この傾向は、1709年に将軍綱吉が突然死した直後、特に顕著であった。綱吉は悪名高き「生類憐みの令」、浪費癖、依怙贔屓で庶民を苦しめ、彼らの怒りと侮蔑を買った人物であり、世間では、彼の死はこれ以上の悪政を喰いとめるための、妻による暗殺もしくは家康の幽霊の祟りではないか、という噂でもちきりになった。

綱吉に関するゴシップやニュースは、当時もっとも頻繁に落書きされたネタの一つであったという。 『徳川実紀』という幕府の公式記録にも、噂や落書きの氾濫についての言及があり、また、ニュースや伝聞の拡散を制限しようと、お上が何度もお触れを出さなければいけなかったという事実は、「人の口に戸は立てられぬ」という当時の世相をよく表している。

地下活動としての写本制作

貸本を肩に担いで行商する貸本屋。『的中地本問屋』(1802年)(国会図書館蔵)。

これまで見てきたような、幕府が必死で規制しようとしてもできなかった、一過性の話題を提供する「ニュースメディア」以外にも、タブーに触れる話題を記録・流布するための強力な武器が江戸時代にはあった。それは、印刷技術に頼らない手書きの本(写本・手稿)である。もともと、写本・刊本を問わず、書物一般に関する出版規制は存在したのだが、幕府はのちに手書きの本に特化した掟を作り、望ましくない話題を扱った写本制作を禁じた。京都本屋仲間が1770年代に作成した『禁書目録』(1771年)には、禁書と認定された書物の多数(122にも上る)が写本であることが示されており、手書き本の扱いに気をつけるよう組員に注意を促す言葉も記載されている。 しかしながら、検閲作業は、商業出版物の印刷・配本を司る本屋仲間の自治にほぼ委託されていたため、手書きの書物を私的に作成するのは難しいことではなく、また、そのような写本は、木版印刷で大量生産される書物と同様に、貸本屋を通して世に出回ったのである。ピーター・コーニッキが既に指摘しているように、江戸時代の日本において、写本は木版印刷による出版文化を補完する存在であり、検閲の対象になりうる作品に安全な居場所を提供してくれるという、大切な役目を果たしたのである。

実録本:ゴシップ紙の江戸時代版

近世の写本には、豪華な特注本、私的な記録、特定の地域でしか需要のない本など、様々な内容のものが存在し、手書きだからといって必ずしもタブーの主題を扱った訳ではない。『衆道通夜物語』の場合、地域色の強さと読者層を限定する狙いを兼ねて、作者が写本という形を選んだことが考えられるが、それ以上に、スキャンダラスな内容を含む話であることが、この本の形態を自ずと決定したのであろう。18世紀初頭までに、武家の内部事情を暴露する手書き本を制作した罪で、作者が処罰される例はあった(ただし、そのような沙汰の判決にあまり一貫性がなかったのも確かだ)。 『衆道通夜物語』の写本も、醜聞や時事ネタを暴露する「実録本」「実録もの」「実録体小説」と言われるジャンルの作品で、お上にとっては、悪書に分類される類である。

幕府に謀反心を抱いた浪人・由井正雪が起こした慶安事件(1651年)の実録本『慶安太平記』(1790年)からの場面(ペンシルベニア大学図書館アーサー・トレス・コレクション蔵)。

手書きの実録本は、一般大衆の関心事であり、かつタブーの話題を提供することが多く、武家のお家騒動、悲惨な敵討ち事件、情事、侠客の武勇伝、百姓一揆の英雄、上流階級社会を揺さぶるような痴情事件(例:1803年の延命院事件)などが、その好例である。手書きとはいえ、実録本写本は個人の密かな楽しみのためだけではなく、一定の読者を獲得する目的で作られたものであることが多い。そして、貸本屋の有力商品として広く読まれた写本も存在し、そのような作品が読者によって書写を繰り返されるうちに、さらなる事実の詳細や脚色が書き加えられることも少なくなかった。

『安永実録伝』(江戸時代)全25巻の第1巻より。このシリーズは住吉屋卯兵衛という貸本屋が所持していたもの(現・早稲田大学図書館蔵)。この実録本は、徳島藩の第十代目藩主・蜂須賀重喜(1738-1801)の贅沢三昧に言及している。

『衆道通夜物語』は、情事・嫉妬・復讐・殺人・武家(あまり有名ではないが)の権威失墜など、典型的な暴露本の材料をすべて備えている。そして、実録本の常として、作者の名前や流布の実態などは不明である。バイネキ図書館蔵の写本には、はるばるイェール大学まで流れてくるまでの軌跡――貸本屋の商品だったことを示す書き込みや、持ち主の蔵書印などの手がかり――は一切なく、同書の別の写本が存在したかを確認する作業も困難である。われわれのもとにある本は、題箋を欠いているため18世紀当時の題を知りえないし、そもそも実録本は複数の題名で知られたり、流布したりすることが多いからだ。

さらに、男色を扱う古典籍のリストとしては最大の、岩田準一による男色文献書志や国書データベースにも、それらしき題の作品は含まれていない。 われわれが現在把握できる情報を鑑みる限りで言えば、イェール本は現存する唯一の写本かもしれない。そして、この本が作者以外の人々にも読まれたのであれば、おそらく本作の舞台となった米沢の住民の間だけで享受されたと思われるのだ。


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コッホ・アンゲーリカ(日本語訳:シュミット堀佐知). 「実録本:近世日本のスキャンダル・ゴシップ・噂話」『血と涙と武士の愛:18世紀日本の悲劇の物語』、ジャパン・パスト&プレゼント、2024年。 https://japanpastandpresent.org/en/projects/blood-tears-and-samurai-love/introduction/true-record-books

For additional information on references and images, see our bibliography and image credits pages. Research for this page was generously funded by the Dutch Research Council.