勇ましき美少年たち:武士と男色文化アンゲーリカ・コッホ(日本語訳:シュミット堀佐知)

出版物に見られる男色

僧たちが茶屋で歌舞伎役者と戯れる図。『男色木芽漬』(1703)より(立教大学乱歩コレクション)。

イェール蔵の写本が制作された18世紀初頭、男色・(若)衆道などと呼ばれる、男性同士の性愛を目的とした商業大衆文化は、都市部においてはすでに定着しているものだったが、出版ブーム・陰間茶屋・野郎歌舞伎人気の後押しが、さらにその勢いに拍車をかけていた。そのような中、男性同士の性愛は、商業出版物がオープンに語ることのできるテーマであり、男色に関するイロハ――正しい恋文の書き方から鼻毛の処理方法まで――を網羅した、「諸分け」と呼ばれる恋愛攻略本などが出回った。また、男色派または女色派を標榜する架空の人物たちが論争する男色女色優越論、現代のアイドル図鑑を彷彿させる、歌舞伎俳優の役者評判記、僧・歌舞伎役者・若き剣士の恋愛をめぐる男色物語集、男性同士の性愛を描いた春画なども出版されていた。当時、男色を法的に規制する動きが見られたが、それは同性間の性愛が云々というよりは、あまりにも極端な兄弟分の絆がもたらしうる悲劇的顛末を未然に防ごうとするものだった(ちなみに同性間の性愛を病気とみなすような男色反対論はほぼ皆無で、医学界が男色文化に物申すことはほとんどなかった。 お上の規制を完全に免れたわけではないものの、男色文化は非道徳行為でも「公然の秘密」でもなく、近世の商業出版物を通して、比較的自然に市井に広まっていったのだ。

もしイェール蔵写本に、お上の規制に引っかかり、印刷出版を難しくさせるような色々な点があったならば(セクション2参照)、その「問題点」に「男色だから」というものは、含まれていなかったと思われる。また、「男色」という言葉を含む仮題を別にすれば、本書は主人公・源太の色恋沙汰を、「男色」ではなく、「執心」や「懇意」のような語を用いて表現している。しかし、男性同士の恋愛が、この作品の中心テーマであることは間違いなく、物語の展開に筋を通すための理論・原動力となっている。ゆえに、江戸時代に制作された、多様な男色ものの作品群(コーパス)に、『衆道通夜物語』を含めるのは、妥当だと考えられる。だが、その一方で、コーパスのどこに本作を位置づけるべきか、という疑問も浮上してくる。

三都から隔絶された東北・米沢藩で制作された『衆道通夜物語』は、商業出版され、都市を舞台にした男色ものとは、どう違うのだろうか。もし、米沢特有の男色文化というものがあったとしたら、本作はそのような文化にどう関連するのか。また、本作は文学や法規制をめぐる当時の世論、また、醜聞的な内容を含み、密かに制作された、別の男色ものとも、どのように関連するのであろうか。

近世男色文献のギャラリー

江戸時代に出版された男色テクストにはどのようなものがあったのだろうか

若衆に接吻する男性たち。『男色山路露』(1730年ごろ)より(立教大学乱歩コレクション)。


僧侶・武士・美少年の恋愛

稚児。『稚児草紙』(大英博物館)より。絵画の中で、稚児はたいてい豪華な衣服をまとい、化粧を施した姿で、長い髪を女性のそれよりも高い位置で結んでいるので、成人男性・僧・女性とは視覚的に区別されている。

男色は、江戸時代以前からすでに、日本の文化・文学において重要な位置を占める主題であったのだが、中でも、仏教界・政界のエリートたち、とくに武士と僧侶が、その担い手として長く認識されてきた。中世の仏教寺院は、多くの稚児と呼ばれる少年たちを抱えており、彼らは高僧に仕え、その下で仏道や学問を学び、聖なる存在として、宗教儀式でよりましなどの役割を果たしたり、師匠の性愛の対象となったりした。 いくつかの宗派では、菩薩として生まれ変わった少年たちとの性交を含む、稚児灌頂と呼ばれる儀式が伝わっていた。 稚児と僧の恋愛を扱った中世の稚児物語は、悟りをもたらしてくれる稚児稚児との男色を称え、和歌集・漢詩集には、稚児への恋心をつのらせる僧たちの声も散見される。

江戸時代の初期までには、小話(こばなし)やその他の大衆文学の中で、仏教僧は美少年好きキャラの定番となっていた。このような文化背景を鑑みると、イェール本の語り手が仏教の菩薩であることや、その制作者が源太の死を悼む仏教僧であるように書かれてるのは、単なる偶然ではないかもしれない。ただし、恋多き源太のパートナーに、僧は数えられてはいないのだけれど。

源太の念者志願者は、武士階級の男性たち、つまり、中世以来、男同士の固い絆(兄弟分)でよく知られるようになった人々である。 イェール本が作られたころには、武士社会の最上層を占めるエリートたちの間で、男色は珍しくなかったと言われている。

悪名高き将軍・徳川綱吉(在職1680~1709年)に関する非公式な記録によれば、 彼は家臣の中から美形な者を選び、自分の側近にする癖があったため、それを避けようとした若い従者たちは、わざと髪型を野暮ったい「よけびん(避け鬢)」に変え、将軍の関心を惹かないようにしたのだという。1690年ごろに編纂された『土芥寇讎記』(どかいこうしゅうき)という、各藩の藩主の性格を解説する、編者不明の本に従うのであれば234人中37人までが美少年狂いだと評されている。 しかしこの本の編者は、美少年狂いは女狂いよりはましだ、とも述べており、当時の女色男色論によく見られた女性蔑視の見解を繰り返している。

武士と若衆『衆道物語』(1661年)より(国会図書館)。
優雅に興に入る若衆たち。『若衆有楽図』より(東京国立博物館)。

このように、男色文化にはいくつかの形態が存在したものの、そこに共通するのは、稚児や小姓や若き剣士であれ、歌舞伎役者や陰間であれ、念者の性愛のパートナーとなるのは、若衆と呼ばれる若者や少年だったということだ。イェール本の中でも、源太は明らかに前髪のある元服前の若衆として描かれており、殺害された当時、彼はまだ元服の前段階である半元服の準備をしている年齢だった。そんな美少年・源太は、多くの男性たち――彼の念者だけでなく、語り手である地蔵菩薩や、この本の制作者まで――を魅了する存在なのだ。『衆道通夜物語』は、実際に起きた殺人事件の実録とは言え、その内容は、永井が犯行にいたるまでの記録ではなくではなく、被害者少年の悲劇として語られている。ゆえに、源太は必然的に、聡明で品行方正な若き侍として、かなり理想化され、魅力的な人物として描かれる。この傾向は若衆を主題にする文学作品に共通の特徴ではあるものの、源太の無類の美を称える一首の和歌を除いては、彼の容色に関する記述はほとんど皆無である。つまり、叙情的・文学的な技法を避けることにより、『衆道通夜物語』も、それなりに実録本にふさわしい雰囲気を作ろうとしているのだ。


上杉藩主は美少年好き?

仮に米沢藩士の衆道文化なるものが、17世紀後半には存在していたなら、それはどのような形で、それ以前の史料の中に軌跡を残したのであろうか。まず、武家社会最上層の人々を見ると、上杉家の当主には少年好きで知られる者が数人おり、米沢上杉家の先祖でもある、かの上杉謙信(1530-1578年)も、美少年好きであることが噂されていた。謙信と懇意であった太政大臣・近衛前久は、1559年に送った書状の中で、謙信が上京した際に、「きやもしなる若衆」(きゃもじ[花文字]=美形)を大勢集め、夜な夜な酒盛りに耽っていたことに言及し、彼を「若もし数寄(わかもじすき)」(男色愛好家)だと評した。 後世に書かれたいくつかの記録では、謙信の政敵が、美少年を彼の小姓として送り込み、骨抜きにしたところで暗殺させる(おそらくは架空の)策略を講じた、としている。 上杉家の公式記録である『上杉家御年譜』さえも、謙信が 自ら「容貌佳麗」な少年・河田長親を側近役に抜擢し、その「賞遇」のおかげで、長親のみならずその一家までが飛躍的な出世を遂げたことを記している(二人が恋人関係にあった、という記述はさすがにないのだが)。

米沢藩初代当主の上杉景勝(1556-1623年)も、似たような噂の的であった。1690年に、越後出身の医師によって編纂された『奥羽永慶軍記』によれば、景勝は女を目にすることさえ耐えられないほどの女嫌いで、自分の妻ですら会いたがらなかったため、忠臣の中には、発展途上にある米沢藩の後継ぎ誕生を危ぶむ者もいたという。そこで、家老の一人直江兼続は、京都の遊女を美少年風に男装させ、子作りに励ませるという妙案を思いついたそうである。 この逸話は、多くの点で史実と矛盾するため、信憑性に欠けており、作り話であると思われるが、17世紀の奥羽地方で、そのような噂が飛び交ったという証拠にはなる。このように、地方の大名が男色愛好家だと噂されたり、藩主が寵愛する若衆と親密な関係を持つことなどは、ごく当たり前のことだったのだ。

上杉謙信の少年好きについて言及している近衛前久の書状(1559年)(米沢市上杉博物館)。


米沢藩法による男色の禁止

このような噂話は、武家社会の上層部における男色が、その下位に属する人々から、どのように認識されていたのかを示唆するものである。その一方で、男色を規制する法令は、逆に米沢藩の有力者たちが、藩士たちの不謹慎(に見える)行動を改めさせようとする、トップダウンの認識を示すものだ。米沢藩が家臣らのふるまいを危惧し、1603年に「他家の義は申し及ばず、傍輩中」(他家の者は言うに及ばず、同族であっても)若者と「懇切」な絆を結んではいけないと衆道関係を禁止したのは、その好例である。 米沢という辺境の地で再興を目指していた上杉家にとって、男色禁止の藩法は、他の武家と上杉の家臣が「敵同士の恋仲」に陥る可能性を制限するための強硬手段の一環であった。つまり、藩の有力者が危惧していたのは、同性間の恋愛ではなく、家臣が「徒党」を組むことで政治的影響力をもちうる可能性や、家臣同士の強い連帯感が、藩社会の権力構造や秩序を乱しうる可能性だったのだ。

1603年の法令を皮切りに、17世紀の初めから18世紀の終わりまでに公布された、男色を取り締まるための法は、おしなべて秩序の乱れを禁ずるためだという意図を表明しているが、それと同時に、男色関係がもたらす、望ましくない振る舞いを抑えようという目的もあった。望ましくない振る舞いの例と言えば、「無法成衆道狂い」(1656年)や、衆道関係のもつれが、コミュニティ一帯を巻き込む諍い・もめ事・不和に発展し、人の生き死に関わるような事件(1775年)などがあげられている。 1751年の法令では、兄弟分の仲をとりもつ人々の責任までもが言及された。

男同士の恋愛のもつれによる争いを描いた場面。朱は読者が入れたものと思われる。『男色木芽漬』(1703年)所収の一篇より(国会図書館)。
男同士の恋愛のもつれによる争いを描いた場面。『男色木芽漬』(1703年)より(国会図書館)。

藩法による規制という角度から男色を考えると、刃傷沙汰など、闇の部分に焦点が行ってしまうことは否めない。そして、源太の物語との共通点も見逃せない。源太の周りに集まり、「徒党」を組む男たちの忠義心は、源太との絆の如何により常に変動し、源太に近づく機会は、友人・隣人・知人たちにより、大っぴらに取引されるのだ。源太が結ぶ兄弟分の契りも、長くは続かず、嫉妬の原因や、近隣の中級武士たちの間に不和を生じさせ、最終的には、「生き死にに関わる」事件にまで発展してしまった。実際、源太の色恋の行方は、藩の法令が描写した衆道の様相に酷似している。藩法の内容とイェール本の内容を比較すると、米沢の地に受け入れられた、衆道文化の活気と、刃傷沙汰を招きかねない危うさが見え隠れする。このような文脈を鑑みると、源太の悲劇は、まさに藩の有力者たちがが防ごうとしていた類の男色事件だったと言える。


殺意の行方

男色禁止令の中には、実際に起きた事件に触発されているものがあるはずであるにも関わらず、現在まで残っている藩の判例集には、「男色事件」と明記されているものはない。 源太殺害事件の場合もそうであるように、犯行動機は判例に記録されないことがおおいのである。このため、史実としての源太殺害事件の背景にあるものを、男色だと断定するのは不可能になり、また、米沢で起こった男色関係のもつれによる刃傷沙汰をそれと特定し、男色事件の頻度・動機・加害者への求刑の実態などを知ることも難しいのである。

例外的に、『御呵附引合』(おしかりつきひきあわせ)と呼ばれる藩の判例集に、1719年に起きた事件のことが記録されている。それは、江戸・白金にある上杉家の下屋敷で、小姓が自分の従者とその仲間を、男色のもつれによる「乱心」のために殺したというものである。加害者に対する判決は、源太を殺した人物のそれと同じく、打ち首と家名の廃絶という極刑で、18世紀初頭の藩の有力者たちは、中級藩士が若衆との恋愛に溺れ、暴力事件を起こした場合には、容赦なく厳罰に処したことが分かる。

男同士の恋愛のもつれによる争いを描いた場面。『男色木芽漬』(1703年)所収の一篇より(国会図書館)。
男同士の恋愛のもつれによる争いを描いた場面。『男色木芽漬』(1703年)所収の一篇より(国会図書館)。

詳細が分かっている男色関連の殺人事件には、もう一つあり、こちらの方は藩の公的記録ではなく、米沢近辺で起きた珍事・実話などを集めた本の中に収録されている。この1767年に起きた事件は、平林力助(24)と中里兵次(13)という人物に関わるもので、「血を判て堅く兄弟の誓」をたてた二人の睦まじさを妬んだ若者たちは、兵次の父親にかけあい、もし力助が兵次を独り占めするなら、兵次とは縁を切る、と脅したという。 兵次の父親は、力助に兄弟の契りを解消するように懇願するが、力助が激高し、拒絶すると、今度は兵次の両親が二人を引き離そうとするようになった。やがて、力助は兵次が自分を欺き、兵次の仲間たちが、自分が兵次に愛想を尽かされたことを馬鹿にしていると知り、これが最悪な事態を招くことになった。その日の晩、力助は兵次の家に赴き、兵次を刺し殺した後、自分も喉を突き、寵童の後を追ったのだ。

藩による取り調べは、兵次との男色関係を父親にとりもたせた若者たちにも及んだが、最終的な判決は、力助が「乱心」のために兵次を発作的に殺したという結論に至った。源太のケースと同様に、この事件は与板組と呼ばれる中級米沢藩士が起こした事件であり、彼らの間で美少年をめぐる激しい争奪戦が繰り広げられていたことを物語っている。と同時に、この記録は、若き藩士たちが、念者や若衆と兄弟分の関係を築くことが、コミュニティの一員として成功するためにどれほど重要なのかを示唆している。兵次の父親や地域の住民を含む大人たちが、男色を当然視し、それを積極的に奨励しているように、男性同士の恋愛は、米沢藩の文化として確立していたのだ。


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コッホ・アンゲーリカ(日本語訳:シュミット堀佐知). 「勇ましき美少年たち:武士と男色文化」『血と涙と武士の愛:18世紀日本の悲劇の物語』、ジャパン・パスト&プレゼント、2024年。 https://japanpastandpresent.org/jp/projects/blood-tears-and-samurai-love/introduction/brave-and-beautiful-boys

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