潜伏キリシタンとオーラルヒストリー: 名前で分かってくる
PDFダウンロード授業計画:名前で分かってくる[インタビュー3:小崎なつき]
作成者:グウィン・マクレランド、ニューイングランド大学 (五島列島、坂谷伸子、大﨑五月協力)
作成日:2024年1月23日
キーワード:世界遺産、名前、差別、意識、アイデンティティ
インタビュー3:小崎なつき(仮名)
対象者:
学部生、大学院生
所要時間:
1 時間(読書時間は含まれません)
学習目標:
このインタビューにおけるインタビュー対象者の自己概念を考慮してください。インタビュー 3 で議論でインタビュー対象者が描く「自己」の概念をふまえて考えてみましょう。
オーラルヒストリーが「権力と権限付与」にどのように貢献できるかを考えましょう。インタビューとこの指導ガイドを読むのに合わせて、リン・エイブラムスが書いた著書『オーラル・ヒストリー理論』の中でこのトピックに関する章を読み、考えましょう。 第 8 章「権力と権限付与」を参照してください。小崎さんは自分の先祖に「下」という文字の名前をつけられたことが差別的な歴史的行為であることを理解しているが、この知識がむしろ今の彼女を励ましているようです。 なぜでしょう?
このレッスンに含まれる可能性のあるコース:
オーラルヒストリー
歴史学
日本研究
アジア研究
宗教学
必要な教材:
音声と写真を含むインタビュー
関連する書物
指導ガイド/授業計画
活動/手順:
授業の準備として、まずインタビュー 3 を聞き、語彙リストを参照しながら書き起こし文を読んでおきましょう。インタビューの感想をクラス全体で話し合います。次に、この指導ガイドの背景情報を読んでください。 小グループで学習目標について話し合います。 このガイドの最後には、さらに議論すべき質問があります。
背景情報:
インタビューの紹介:
小崎なつきさん(仮名)は上五島 の若松島の海岸にある小さな集落で生まれました。インタビューで彼女は、潜伏キリシタンの先祖に対する考えと、先祖が潜伏キリシタンであることが自分自身にどのような影響を与えたかについて語りました。世界遺産登録の影響と、それについて最初に感じたことや、旧姓の下峰という名字についても説明してくれました。
歴史家の浦川和三郎氏は、明治時代の役人が平民たちにこのような名前を付けた事を認めています。明治6年頃、役人が、名字のなかった平民に名字を与えた時、地理的特徴や地名から付けることもありましたが、若松地方では役人がキリシタンたちに「軽侮の意味」を表すような名を与えたとされています。浦川氏によると、下村 (上の写真)、下田、下崎など、それぞれ「下」の字が含まれる名前で、そうした名前は、小崎さんのご先祖が住んでいた場所からそれほど遠くない桐古郷で特に使用されていました。1
小崎さんの場合、ご先祖についてよく分からないところがありました。ポストメモリーとは、学者のマリアンヌ・ハーシュが提唱したホロコーストの記憶から生まれた理論です。生命を脅かされるような体験をした生存者の多くの子どもや孫たちの中で、その体験のトラウマを世代を超えて伝えられていくのは、沈黙やギャップ(分からないところ)があるからこそと考えられています。2 このインタビューでも同様のことが分かります。小崎さんは、父親が彼女に詳細な歴史は語らず、共通の祖先の歴史についてだけ話したということを覚えています。 そこで彼女は、先祖の歴史の中での具体的な詳細については、自分で調べるしかないと決心しました。
そうして調べてみたところ、彼女の先祖の話は、潜伏キリシタンの子孫であり、カトリック信徒である自身のアイデンティティに影響を及ぼしていることが分かったのです。 小崎さんはインタビューの中で、浦川和三郎の1951年の本『五島キリシタン史』で調べた自分の先祖の物語について説明してくれました。3 インタビューでは、その本のどのページにそれが掲載されているかを説明しています。
ご先祖(5世代前)は、峯下丈八 (みねしたじょうはち) という名前でした。彼女は先祖の話を調べて次のようにメールで私に伝えてくれました。
「因みに、高祖父【峯下丈八】が福見に移住してきたのが1856年の浦上三番崩れ時で、33歳頃、1870(明治3)年、福見を逃れた時が丈八49歳。8名で船に乗りました。この時に同じく福見から逃れた人々が総勢9家族、50人いたのですが 峯下姓がもう一人います。親戚だったかはわかりません。しかし、福見付近で多かった姓です。
五島キリシタン史(浦川和三郎)によればこの時(1870年)福見を逃れた人達の名前が載っています
・林 幾次郎(はやし いくじろう)
・峯下 丈八(みねした じょうはち)
・森 幾三郎(もり いくさぶろう)
・梁 音次郎(やな おとじろう)
・峯下 常吉(みねした つねきち)
・岩本 惣市(いわもと そういち)
・岩本 勇助(いわもと ゆうすけ)
・森 仁蔵(もり にぞう)」
この物語の中で言及されている五島島民の一人、峯下今七が、小崎さんの先祖である峯下丈八と親戚関係の可能性があるように思えました。 それは特に、名前に数字が含まれるなど、名前が似ているためです。 私は小崎さんに、この12歳か13歳の子どもが若い宣教師のジュール・アルフォンス・クザン神父に連れられて上海、香港、そして最終的にはペナンの神学校への素晴らしい旅に連れて行かれたことを話しました。 やがて小崎さんから返事をいただきましたが、親戚である可能性は十分にありますが、当時福見地域には同じ名前を持つ人が沢山いたので、峯下今七が実際に血縁関係にあると断定するのは難しく、そして先祖の家族には本当にたくさんの人がいたので分かりかねるということでした。
1956年に出版されたフレデリック・ウィリアムズ著『長崎の殉教者たち』という英語の本の中で、著者は次のように書いています。
「最初の浦上キリシタンたち(うち 114 人)が一斉検挙され国外追放されたとき、プティジャン司教は警戒し、若い学者たちが殉教者ブロック(原文のまま)に導かれる可能性をこれ以上受けるのを恐れた。 彼は彼らを、彼らの指導者であるカズン神父の世話の下、プロ・ペナンにある外国宣教協会の総合大学まで静かに送り届けた。」4
峯下今七はクザン神父と一緒に長崎から船に乗って出港しました。 彼は浦上の8人の学生と平戸の1人の学生とともに、1868年7月28日にフランス人宣教師の教育を受けるために長崎へ行き、その後「外国船」に乗って上海、そして香港へ行きましたが病気になり亡くなってしまいました。 日本の若者たちを日本国外に留学させる計画をたてたのは、クザン神父とポアリ神父でした。浦川氏の歴史書の中には、若々しい容姿のクザン神父と若い学生たちの写真が掲載されており、「クゼン師に率ゐられて上海に逃れしラテン学生」と書かれてあります。
小崎さんはインタビューの中で、重要な記憶の場所として中通島南部の桐と「キリシタン」の洞窟についても言及しました。
1 Urakawa Wasaburo, Gotō Kirishitan Shi, 166-167. In the earlier period of missionization, when the Jesuits were in Japan in the late 16th and early 17th centuries, genin 下人 was a term used to denote "lower people," or those of lower status, and therefore often referred to "bondage," similar to slavery. See Rômulo Ehalt. "Geninka and Slavery: Jesuit Casuistry and Tokugawa Legislation on Japanese Bondage (1590s–1620s)." Itinerario 47, no. 3 (2023): 342–56. https://doi.org/10.1017/S0165115323000256.
2 Marianne Hirsch, The Generation of Postmemory: Writing and Visual Culture after the Holocaust (New York: Columbia University Press, 2012).
3 Wasaburō Urakawa, Gotō Kirishitan Shi (Tōkyō: Kokusho Kankōkai, 1973).
4 Frederick Vincent Williams, The Martyrs of Nagasaki (Academy Library Guild Fresno, Calif. 1956), 110.
ディスカション質問:
このインタビュー抜粋は、記憶の概念を理解するのに役立ちますか? もしそうなら、小崎さんの場合はどのように理解されますか?また、歴史学における他の例が思い浮かびますか?
小崎さんは潜伏キリシタン世界遺産の発表を彼女自身のアイデンティティとどのように関係付けていますか?
平民のあからさまに差別的な名前は、彼らへの歴史的抑圧を理解するのにどのように貢献しますか? 小崎さんはなぜツアーガイドの仕事において、歴史を説明する一環としてこの「名前の物語」を使うのでしょうか?
2018 年に潜伏キリシタン世界文化遺産が認定されたことで、潜伏キリシタンに関係する人やその子孫である人々が動揺したのはなぜだと思いますか?
評価:
生徒は、差別がどのようにして誇りとなり得るかについて短い文章を書く必要があります。 これはいつもそうでしょうか? なぜでしょうか?あるいはなぜそうではないのでしょうか。
参考文献:
Hirsch, Marianne. The Generation of Postmemory: Writing and Visual Culture after the Holocaust. New York: Columbia University Press, 2012.
中島功「五島編年史」 :国書刊行会 東京(1973年)
浦川和三郎「切支丹の復活」第二巻:東京 国書刊行会1979年(1928年に初版)
浦川和三郎「五島キリシタン史」東京 国書刊行会(1973年)
Williams, Frederick Vincent, 1890. The Martyrs of Nagasaki Academy Library Guild Fresno, Calif. 1956.
参照写真:
写真1:若松や中通島南部の地域の潜伏キリシタンの子孫の多くの名前には、この「下村(シモムラ)」姓のカトリックの墓のように「下」という文字が含まれている。2023年。© マクレランド
写真2:ジュル・アルフォンス・クザン(クザン神父1842―1911) パリ外国宣教会晩年、公有
写真3:クザン神父と、上海そして香港に留学した峯下を含む若い学生たち、浦川、1928 年「切支丹の復活」、公有
クレジット/謝辞:
家族に関するインタビューと調査において小崎なつき氏に感謝いたします。 また、本プロジェクトにご協力いただきました佐々木亮さん(福岡県)、西村明さん(東京大学)に感謝いたします。