小崎なつき(仮名)

「名前で分かってくる」

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インタビュー:
令和4年12月2日

場所:
有川、中通島、上五島、長崎県

長さ:
やく11:30分

会見者:
グウィン・マクレランド (GM)

取材相手1:
小崎なつき(おざきなつき)
昭和51若松島生まれ、当時四十六歳

以下は五島列島で録音されたインタビューの筆記録と音声です。オーラルヒストリーは話された記憶で構成されます。これは個人的な意見であるため、最終的に検証された、またはイベントの完全な物語を提示することを意図したものではありません。この筆記録に含まれる資料は、調査研究、教育、その他の非営利または非公共の目的で自由に使用できます。いかなる場合においても、素材の著作権を侵害する行為を行ったり、許可したりしてはなりません。(例:複製、出版、上演、伝達、翻案、商業レンタル契約の締結、または第三者にこれらの行為のいずれかを許可すること)。資料に関するさらなる権利 (出版、複製、放送、または演奏する権利など) の要求は、「Japan Past & Present」に問い合わせが必要です。


小崎なつきとのインタビュー

インタビュー記録

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【セクション1:スピリチュアリティ】

グウィン・マクレランド

そして、何かスピリチアルティとか、魂のこと、ええと、あの、カトリックだから、それに興味がありますかね。

小崎なつき

そうですね。昔はそんなでもなかったんですけど、やっぱり父方も母方も、いわゆる潜伏キリシタンで言われる家系の流れのま、その外海から移住してきた、え、ま、カトリック、キリシタンたちだったので、少しずつ、今ガイドをしたりしているんですけれども、ま、そういうなかで、ま、ルーツを知ったりとかってしながら、だんだんと、こう、何かいろんな先祖の生き方とか、自分自身の生き方に、ちょっとこう、やっぱり、影響というか、こう生きたいなとか、ま、結構影響は受けますね。考えたりするようになりました。はい。

グウィン・マクレランド

はい、分かりました。ありがとうございます。

【セクション2: 差別的な名前】

小崎なつき

結婚する前はしもみねという名前だったんです(下峰)

グウィン・マクレランド

シモミネ

小崎なつき

はい、で、この下峰のシモという、下という字ですね。これが実はその、あの、明治に入って[GM: はい]、平民も姓(せい)をもらうようになったときに、役人から、差別の意味でつけられた名前だったというのを後で知って、で、最初はあまりこう、いい、もちろんその感情とかイメージとかもね、ああ差別だったのか、というので、ただのショックでしかなかったんですけど、[GM:あ、そう] ま、こういうガイドをするようになったときに、あ、その、ある方から、その下というのは自分達の先祖がこうキリシタンだからだったんだよ。だから、そのそういう、証拠なんだ。だから、自分にとっては誇りなんだという方がいらっしゃって、で、それ聞いて、あの、あ、そういうこう、なんだろうこう前向きね、生きていく、というか、そういう生き方が、こう、例えば、迫害だったりとか、ま、差別だったりとか、そういう、いわゆる悲しいね、痛い歴史を乗り越える原動力になったのかなーって、そのある方の話を伺ったときに、すごく思わされて、

(続く)で、あの、実は長崎の世界遺産になるときにね、私は、あんまりこう、何だろう、こう反対というか、ちょっとこう、やっぱり自分の心の中で整理がつかないところがあったんですね。実際そのなんだろう。実際に使っている教会にたくさん人がいらっしゃることで、トラブルになることが多いんじゃないかなと思っている方だったので、すごく複雑な気分でその世界遺産になるのを見てたんですけど、で、その、そんな中で、その方の話を考えて、あ、そうかと、昔そうやって、差別してた役人が、今はそれを宝にしようとしてるんだなというのを気づいたんで、自分のその仕事のも一緒にこう前向きにやれるようになったというかですね。でそこはすごく、その自分のガイドの転換期みたいなのにその旧姓というか、なったというので、なんか、その自分の例えばルーツだったりとか、少しずつ、その歴史だったりとか、それまでよりもより深く、より興味深く考えるようになったということがありますね。

グウィン・マクレランド

はい、そうですね。もうちょっとだんだん誇りになったようなものですかね。

Ozaki Natsuki

そうですね。

グウィン・マクレランド

そしてその世界遺産2018年から、そういう意識が変わったきたんということですか。やはり、ええ。

小崎なつき

そうですね。やっぱ、あの年ですね。こう本当に劇的に世間というか、みんなが五島とか、長崎のキリスト教の歴史だったりとか、教会に目を向けるようになって、ま、いろんな目的で、こうたくさん人がいらっしゃるようになって、こう、本当にお客様もすごく増えたし、で、はい。で、その時に、やっぱりこう自分のこう、それまでのこう心の持ち方みたいなのにも、何か変わったというか、変えられた、というんでしょうかね。だからすごく、あのお客様方にも自分の旧姓の話をよくするんですけど、その時にやっぱ、感動して下さったりとかですね、あの、そういう方々が多くて、すごく、プラスに。

グウィン・マクレランド

ええ、本当に面白そう

小崎なつき

はい。思えるようになりました。

A photograph of of Kiri church and cemetery, Nakadōri Island, Upper Gotō. In the foreground is a series of gravestones, with a circular body of water in the middleground set in front of a red-roofed church sitting on the forested mountainside.
写真1:桐教会、墓地、中通島、上五島、2023年、写真、マクレランド

【セクション3:浦川の本に出るご先祖】

小崎なつき

で、その、あの峯下丈八がその明治三年、ですから1870年ですね。にその本当は全然取り締まりとかも、その時がなかったんですが、そのただただその地区の小頭(こがしら)という役人というか、役をしていた人が、略奪(りゃくだつ)をしたいために嘘の情報を流して、逃げた方がいいじゃないか、取り締まりがあるらしいよ、っていう嘘の情報を流して、でそれを聞いた私たちの先祖たちが9家族、五十人ぐらい、こう、脱走というか、逃走しているんですね、で逃走して、帰ってきたら、全部略奪されて、何もなくて、あのまた、一から、というかゼロから開拓をしなければならなかった。という話がのってて、で私もこれは知らなかった

グウィン・マクレランド

その資料は,あの、なんと言う資料ですか。

小崎なつき

写しなんですが、コピーなんですけれども、これか、これですね。五島キリシタン史という本に。

グウィン・マクレランド

あ,持っています、実は。オーストラリアで。

小崎なつき

ここ、福見っていうところでの話の中で出てきます。ここ、福見というところの話の中で出てきます。

グウィン・マクレランド

160ページから、168ページぐらい?

小崎なつき

168から、そうですね、ここですね。160・あ・170ページに載っています。

グウィン・マクレランド

あ、170ページ。はい。ありがとうございます。

Ozaki Natsuki

私の父方の先祖になるんですけれども、 で、でこれをこう、あの、なんだろう、ここに何か本にね。父からは、じいちゃんの名前が載っているんだよという話だけ聞いてたんです。で、自分がそのいざ、資料とかを調べるようになった時に、そういう話だったんだという、いわゆる、そのキリシタんだから、いわゆる、なんだろうこう差別的な目で見られてたんで、わりかし扱いもあまりこうなんというかな、人間的じゃないというか、こう、人によってはそういうふうにこう軽く見られて、略奪したりとかということが、わりかしふ平気でというか、あったような感じなんですね、だから、そういう略奪されて、しかも、相手方の名前が載っているので、あの、あまり知りたくなかったなあという情報[GM: ああ、そうですよね。]で、だからあの、こういう内容だから、その父たちはあまり詳しく… 名前が載っているよ、ぐらいのそのあまり詳しい話はしなかったんだなーと思って、はい。

本当にこう長い間、そのキリシタンたちに対する差別意識... っていうのはもうその弾圧の時代の間に、もう培われて来ちゃったみたいな、はい、ところが。

グウィン・マクレランド

やはりあのゼロ、また帰って何もなかったからゼロからあの?

小崎なつき

うん、うん、そう。

グウィン・マクレランド

その時ええ、1870年代でした。のあとはあのやはりあんまり持ってなかったですよね。

小崎なつき

1870年ですね、はい。そうですね、はい。

茶碗のかけらでこう掘って畑をまた耕したっていうふうにかいてありますね。

A circular selection of a historical map of Kyushu, annotated with locations mentioned in the Ozaki Interview.
図表2:インタビュー3に述べた所、パリ外国宣教会の明治23年の地図、オーストラリア国立図書館、https://nla.gov.au/nla.cat-vn102813

【セクション4:桐と洞窟】

小崎なつき

ええと、上五島で、その五島崩れの話になるとええと桐(きり)っていうところと、キリシタン洞窟っていうところがよく、あの、で。

グウィン・マクレランド

えっ?桐とうん。

小崎なつき

私は地図を。 えっとですね。これが五島列島の地図ですけど。

グウィン・マクレランド

はい、はい。

小崎なつき

この、ちょっと南のほうですね、この辺りが桐(きり)っていうところなんですね。でここのこの同じその五島キリシタン史の中で、は、えっと明治元年だから1868年の九月に、ここでキリシタンが捕らえられて、拷問を受けたという話が出てくるんですよ。

グウィン・マクレランド

うん、うん。

小崎なつき

で、これを聞いて、その若松島の里の浦っていうところのキリシタンたちが、この若松島の南にあるちょっと大きな洞窟がありまして、

グウィン・マクレランド

あー、洞窟ですね、はい。

小崎なつき

はい。で今、その洞窟の近くに入り口の近くにキリスト像が建てられているんですが。

グウィン・マクレランド

ええ。

小崎なつき

でそこに隠れるんですね。危険を避けてで四ヶ月ぐらい隠れてたそうなんですけれども。隠れてね。あ、はい。

で四ヶ月目に沖を通る漁師に煙を見つかって、あの通報されて算木責めっていう拷問を受けたっていう、で、まあ亡くなった方とかはいらっしゃらないんですけども、やっぱりあの足が不自由になったとか。はい、そのさっき私にそのしも(下)が、自分の旧姓の下の、あの差別の意味で作られた「しも」、下、という名字が、あのう誇りだといった方は、ここで、ひいおじいちゃんが捕らえられたというかただったんですよ。

グウィン・マクレランド

ええええ。あ、そうです。そうですね。

小崎なつき

で、その方がそんなふうにおっしゃって。ご自身も実はその子供の時に、あのま あカトリックの人って昔、貧しかったんでね。貧しかったんで、その貧しさ故に、こうなんかいじめられたりっていうこともね、やっぱあったそうなんですよ。で、そういういじめをカトリックだからってゆって、耶蘇(やそ)耶蘇(やそ)ってこういじめを受けていた経験を持ってても、自分が信仰を伝えられたってことは誇りだって下(しも)っていうその名字すらも誇りだって言った方がここでそのひいおじいちゃんが捕らえられたっていうことでで、それもなんかすごくこうつながって。

[抜粋終わり]


推奨引用元:
小崎なつき (仮名)。「名前で分かってくる」会見者、グウィン・マクレランド。五島の潜伏キリシタン関連世界遺産、Japan Past & Present(2022年12月2日)。