潜伏キリシタンとオーラルヒストリー: フランスの宣教師、子供の殉教者、愛の実践

授業計画:フランスの宣教師、子供の殉教者、愛の実践 【インタビュー4:中村満】
作成者:グウィン・マクレランド、ニューイングランド大学 (五島列島 坂谷伸子、大崎五月協力)
作成日:2024年1月23日
キーワード:世界遺産、名前、差別、意識、アイデンティティ


インタビュー4:中村満

対象者:

学部生、大学院生

所要時間:

 1 時間(読書時間は含まれません)

学習目標:

  1. オーラルヒストリーインタビューにおける主観性と相互主観性について議論し、概念化する。

    まず、リン・エイブラムスの著書『オーラル・ヒストリー理論』の「主観性と相互主観性」に関するエッセイを読んでください。1 このインタビューにおいて、インタビュー対象者である中村さんの個人的な主観が強みとして理解できるようになるためには何が必要でしょうか。

  2. 歴史家がオーラルヒストリーの資料からどのように一般化しているかを評価します。

    トレバー・ラミスは、「歴史上、インタビュー手法を使用することの核心となる問題は、個々の記録から社会的解釈への移行として依然、残っている」と主張している。2 主観性が強みになれるとした上で、中村さんのインタビューがどのように潜伏・カクレの歴史の一般化に貢献するでしょうか。インタビューの構成作り、代表的な部分、物語の中の沈黙や個々の語りの信憑性を考えながら、議論してください。

1 Lynn Abrams, (2016). Oral History Theory (2nd ed.). Routledge. https://doi.org/10.4324/9781315640761.
2 Trevor Lummis, "Structure and Validity in Oral Evidence," in Perks and Thomson, The Oral History Reader, 2nd Edition, Routledge, 2006, 255.

このレッスンに含まれる可能性のあるコース:

  • オーラルヒストリー

  • 歴史学

  • 日本研究

  • アジア研究

  • 宗教学

必要な教材:

活動/手順:

授業の準備として、まずインタビュー 4 を聞き、語彙リストを参照しながら書き起こし文を読んでおきましょう。インタビューの感想をクラス全体で話し合います。次に、この指導ガイドの背景情報を読んでください。 小グループで学習目標について話し合います。 このガイドの最後には、さらに議論すべき質問があります。

背景情報:

インタビューの紹介:

中村満神父は、久賀島で1957年に生まれた方で、私がインタビューを行った時、五島列島で最大の島にある福江という城下町の中の福江小教区の司祭でした。インタビューの後で、島の北東の堂崎天主堂の資料館へ連れて行ってくれました。そこでは19世紀後半から20世紀初めにかけて、島内での宣教活動の多くが行われました。インタビュー抜粋の中で、1860年代に長崎に来たフランス人宣教師のこと、牢屋の窄(さこ)で亡くなられた3人の幼いご先祖のこと、そして、彼が中学生の時に蕨という仏教の集落での火災の後に、長年にわたる差別が急激に無くなったと考えられることについて論じています。

主観性・相互主観性

このインタビューにおいて、面接者の主観は何を明らかにするでしょうか。例えば、中村氏は出来事が起きた年にはあまり関心がありません。例えば、蕨の火事がいつあったのかなど彼の記憶は定かではありません。しかし、その出来事の意味に非常に関心があります。それで、潜伏キリシタン(またはカトリック)の子孫と仏教の人々の人間関係の修復を促したと中村氏は考えています。

中村神父は久賀島の代表が長崎のパリ外国宣教会のプティジャン神父を訪問したと述べており、これは純心大学博物館の中に所蔵されている彼の論文に記載されています。彼らがプティジャン神父のもとを訪れたのは1865年のことで、上の写真は1866年頃撮影されたものです。このフランス語で書かれたプティジャンの書簡や日記などを読めば、フランス人宣教師プティジャンの視点から彼らがどのように理解されたかを想像できるかもしれません。このように、歴史の側面を理解するには、こうした文学的な資料を参照することが必須です。これらの書簡によると、1865年5月8日に「同じ心がある」キリシタンがこちらにいるので、宣教師が訪れるべき場所だとして五島列島(G.島)の記載が初めて出てきます。また、下のように5月29日に再び島々について言及しています。あなた、または友人がフランス語が読めれば、プティジャンの昔の島民についてコメントした内容が分かるでしょうか?他にこれを読んで、何が読み取れるでしょうか?

オーラルヒストリーでは、インタビューの裏付けを、より広い資料から行わなければなりません。また、他のインタビューや、インタビュー対象者が関わったメディアの記事などを調べてみると、その内容をより詳しく知ることができます。

このインタビューの場合でも、このサイトにはない別の資料に、中村氏のトラウマ的な牢屋の窄事件についてさらに詳しい考えが記載されています。宮本夫婦のインタビューでもこの事件について語っています(インタビュー1)が、中村氏の証言についての追加情報は「桐小教区・キリシタンの心を知る:五島巡礼昔語り 」という日本語の2002年に集めたオーラルヒストリー資料に書かれています。中村氏はNPO法人長崎巡礼センター理事長として、そして現役のカトリック司祭として序文にこう書きました。

インタビューで分かる通り、中村氏の曾祖父は1868年の牢屋の窄事件の後に生まれました。しかし、その曽祖父の姉3人は殉教者として、牢屋の窄の弾圧で亡くなられました。

2002年の資料に中村氏が書いたのが:

この牢屋の窄(さこ)について、カトリック信者でない人と話すとき、「何もよく判らない幼い子どもの泣く声を聞いて、母親は辛くなかったのか」と問われます。何とも返答しにくい質問ですが、私はそのときの母親の気持ちと、子どもたちが天国へ行けるという信仰を持っていたことを伝え、そして、それが、その時のカトリック信者の最善の選択肢だったと答えます。案の定、質問者は、なかなか納得しませんが。

実は、三姉妹の母親、私の曽々祖母が晩年、「牢屋の中で、子どもたちが死んだ時は、涙が出なかった、しかし、何年も経ってから、涙が溢れ出てきた。」と話したと聞かされていました。

トラウマ学の学者キャシー・カルースは「トラウマにおいては現実との最大の直面は、絶対的な無感覚として起こることもある…」と書いています。そして、これは、実際に出来事が起こっている時、目撃できない可能性があると述べています。続けて彼女は、ジークムント・フロイトの言及として、トラウマを経験した人には、出来事の瞬間だけでなく、そこから抜け出すこともトラウマになる、「生き残ること自体が危機となりうる」と述べています。このように三姉妹の母親は3人の子供たちに対する扱いや、子供たちとの死別というトラウマの経験を思い出すたびに(それはまたトラウマとなり)、世代を超えて曽孫の中村氏までに伝承されました。

ディスカション質問:

  • このインタビュー抜粋の中で明らかな「相互主観性」の瞬間を特定できますか。 参加者による「パフォーマンス」はどのような側面に反映されますか。 理由を説明してください。

  • オーラルヒストリーは協力的に行うことができますか。5 つのインタビューの要約と、インタビューの相互主観的な過程を考慮して、何が必要かを説明してください。

評価:

学生は、オーラルヒストリーにおける主観性と相互主観性の重要性と、この中村満氏への特別なインタビューについて、どのように理解しているか、短い文章を書く必要があります。

参考文献:

Abrams, Lynn (2016). Oral History Theory (2nd ed.). Routledge. https://doi.org/10.4324/9781315640761.

Caruth, Cathy. Trauma: Explorations in Memory (Baltimore and London: JHU Press, 1995.

Lummis, Trevor. "Structure and Validity in Oral Evidence." In Perks and Thomson, The Oral History Reader, 2nd Edition, Routledge, 2006.

Perks, Robert; Thomson, Alistair Scott. (Eds) (2006). The Oral History Reader (2nd ed.). London UK: Routledge. 


参照写真:

A photograph showing a wide shot of an open, hilly landscape at sunset. It is the view from Onidake on Fukue Island.写真1:福江島鬼岳からの眺め、左側に福江の街が見える。2022年© マクレランド

A photograph of Bernard Thaddée Petitjean. A middle-aged Caucasian Catholic priest with long black beard with a cross dangling from his neck, seated in chair.写真2:ベルナール・タデー・プティジャン(1829 年 6 月 14 日 – 1884 年 10 月 7 日) パリ外国宣教会 での写真 PHGCOM 、cc1866、CC BY-SA 3.0

写真3:ベルナール・プティジャンの 1865 年 5 月 29 日のフランス語日記/論文 (2023 年 10 月 20 日、純心大学博物館の許可を得て撮影)。2023 年。© マクレランド

A photograph of the Rōya no sako site on Hisaka Island. A stone plaque with 牢屋の跡 written in gold, sitting in empty field.写真4:久賀島にある牢屋の窄、2022年、© マクレランド

クレジット/謝辞:

インタビューに応じてくださった中村満氏に感謝いたします。 プティジャン論文の日記部分の使用を許可してくださった純心大学博物館に感謝します。 また、本プロジェクトにご協力いただきました佐々木亮さん(福岡県)、西村明さん(東京大学)に感謝いたします。