中村満神父さん
「フランスの宣教師、子供の殉教者、愛の実践」
インタビュー:
令和4年11月14日
場所:
福江教会、福江島、下五島、長崎県
長さ:
約13分
会見者:
グウィン・マクレランド (GM)
取材相手1:
中村満(なかむらみつる)
昭和32年久賀島生まれ、当時66歳
以下は五島列島で録音されたインタビューの筆記録と音声です。オーラルヒストリーは話された個人の記憶をもとに構成されます。これは個人的な意見であるため、最終的に検証されたものではなく、また出来事について完全な形で提示することを意図したものではありません。この筆記録に含まれる資料は、調査研究、教育、その他の非営利または非公共の目的の範囲で自由に使用できます。いかなる場合においても、素材の著作権を侵害する行為を行ったり、許可したりすることはできません(例:複製、出版、上演、伝達、翻案、商業レンタル契約の締結、または第三者にこれらの行為のいずれかを許可すること)。資料に関するさらなる権利(出版、複製、放送、または演奏する権利など) については、ジャパン・パスト&プレゼントに問い合わせが必要です。
中村満神父さんとのインタビュー
インタビュー記録
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【セクション1: フランス宣教師との繋がり】
中村満
でもう一つ別の事でいうと、その、信仰の側面でいうと、久賀島には、あ、五島列島で、[GM:はい] 唯一のその、殉教地がある
グウィン・マクレランド
殉教地?
中村満
殉教地。牢屋の窄(さこ)、というね。殉教地があるんですけど、殉教者が、あ、42名います。Forty-twoね。42名。で、あの、それはいつの時代かというと、1865年あ、68年、と9年、の出来事。1800ね。つまりその、明治元年、2年の出来事です。で、8、8か月間続くんですけど、200人を超えるね、200人ちょっとの人が、牢にその、入れられた。で、牢で39人亡くなって、信仰を捨てずにね。殉教した。で、牢から解放されてすぐ3名亡くなったので、それで、殉教者として数える場合に42名、と数えています。そういう、殉教の、出来事があったのがその、久賀島。 で、久賀島の、殉教者達の特徴は何かというと、み、自ら、信仰を表明した、事なんです。つまり、まだ明治、いし、維新の後の時も、えっと明治5年か。までは、禁教でした。こ、国家がね。め、明治政府もキリスト教認めていなかった。
グウィン・マクレランド
そうですよね。
中村満
それなのに、その、まあプチジャンさん、ご存じと思うんですけど、お、大浦にプチジャンさんが来られたので、久賀島からも、プチジャンさんに会いに行って、で、自分達はこういう風に、その信仰を受け継いできてると。そしたらプチジャンさんは何と言ったかというと、もう、その、そういう信仰の仕方は、もう、終わりにしなさいと。
グウィン・マクレランド
本当ですか。
中村満
そう。結局、その、仏教徒を装って、で、その、あの、何ていうか、あの、ええ、仏教、神道を装ってたので、で、そういう、なんていうかその、位牌っていうか、そんな、そういうのをちゃんと持ってた訳ですよ。
グウィン・マクレランド
お家に...
中村満
そうそう。家に置いてた。で、それを私達はもうこれからは、カトリック、キリスト教だけを、信仰しますということで、その、焼き捨てるわけ。みんな集めて。
グウィン・マクレランド
じゃあ、あのすぐ、その時、そういう風に久賀島の、あの、ご先祖が、あの、そういう、仏教的なものを、
中村満
しないと。
グウィン・マクレランド
やめた。
中村満
で、それを、そうそう、やめて、でもう一つは連名でね、私達はもう、キリスト教をちゃんと守ります、っていうその、連名で、その代官所、役所にね、届けてるわけですよ。私たちは
グウィン・マクレランド
役所に
中村満
役所に。その、当時はほらあの、代官ですけど、日高(ひだか)代官っていう、名前日高っていうんですけど、日高代官の所に行って、それを届けてるんですよ。で、それ今あの、久賀島にある、交流センターになっています。世界、世界遺産のね。そこがその、日高代官がいた、あの、場所、屋敷、...
グウィン・マクレランド
その場所ですか。
中村満
そうそう、屋敷跡なんですよ。そう、そこに、今、交流センター作ってる。で、そこ、届け出たから、当然、その、役所の側としては、まだ禁教なので、明治政府も禁じてるから、それも捕らえないといけなくなった。
グウィン・マクレランド
ああ、そう。
中村満
うん、それで、その、牢に入れた。という出来事がある。
グウィン・マクレランド
はい。殉教者は、あの、3人、、。。。
中村満
いやいや、3、あの、42。
グウィン・マクレランド
あ、42?
中村満
42人。
グウィン・マクレランド
多かった。
【セクション2:個人的な繋がり】
中村満
そうそう。で、私の子孫[先祖の言い間違い]も、だから殉教者が3人いる。私の先祖にね。女の子、女の子たちが3人いる。
グウィン・マクレランド
ああ、ほんとですか。
中村満
家族5人で入っ、牢に入れられて、父親母親ね、は、牢から解放された。8か月後。
グウィン・マクレランド
わ、若い時でしたか
中村満
そうそう、えっと父親母親はさんじゅう、三十二、三歳くらいです。その時にあの、子供が、だから、その、結局、証拠書類が残ってないので、年齢はあの、はっきり、はっきりわからないんですけど、まあ一番長女が9歳か10歳。で次女が7歳か8歳。で一番あの末っ子の女の子がまあ、5歳か6歳かだっただろうと、いう風に言われて、考えられてる。うん。
グウィン・マクレランド
なるほど
中村満
でその3人の女の子たちは、だから、牢で亡くなった。で、父親母親は牢から出てきた。で一人だけ男の子が生まれて、で、その、ひと、一人生まれた男の子が私のひいじいちゃん(曾祖父)。
グウィン・マクレランド
ひい、ひいじいちゃん
中村満
そう。ひいじいちゃん、あのFather-grandfather.
グウィン・マクレランド
Great-Grandfather
中村満
そう、もういっちょその、ひい、ひいじいちゃん
グウィン・マクレランド
あの、おじいさんのお父さん。じゃないですか?
中村満
そうそうそうそう。が生まれた。
グウィン・マクレランド
わかりました。
中村満
うん。おじいさんのお父さんが、あ、待て、そうそう、ひいじいちゃんだから、うん、そうそうそうそう。一人生まれて、私にこう、続いてきている、ということになります。
グウィン・マクレランド
なるほど、わかりました。
【セクション3:蕨の火事でガラッと変わった】
中村満
それで、それでさっきの話、あの、もうちょっと続けると、そういう風に結局、殉教、殉教みたいな事もあったので、そうですね、あの、うん、そうねえ、中学、中学生くらいまでか、中学生くらいまでは、だからその、さべ、差別的な...
グウィン・マクレランド
差別的な
中村満
雰囲気が、雰囲気がね、まだ残っていた。で、その仏教神道、
グウィン・マクレランド
それだったら、あの、60年代ですか。
中村満
仏教神道、
グウィン・マクレランド
6,70年代?
中村満
いやいや、千五百⋆ 、まる、いや60年代か、70年代、ま70年くらいまで、かなあ、70年代じゃなくて70年くらいまでか。は、その、差別的な雰囲気が残ってたんですけど、お、その雰囲気がね、あの、がらっと変わる出来事があった。
⋆ [1900の言い間違い]
グウィン・マクレランド
ああ、ほんとですか。それは?
中村満
へん変化をもたらした出来事があって、それは何かというと、この、わら、蕨という集落があるんですけど、ここ、ここにね、これが蕨
グウィン・マクレランド
あの、久賀島の北のほう
中村満
そう、これこれ。「わらび」って読むんですけど、
[抜けた部分]
中村満
で、その蕨、で大火、火事があった。火事が起こって、で相当数、もうその、集落[の家が]密集してたから、みんな燃えたんです。火災にあってね。で、その火災の時に、何があったかというと、ここの、ひさ、久賀に行くならわかりますけど、浜脇の教会がここにあるんですけど、その、教会の神父様が、名前言って良いと思いますけど、山口、という神父様がね、自分の司祭館、まあこれ[インタビュー場所] 司祭館ですけど、司祭館にある、その寝具をさ、布団、毛布、枕、など使わないものを、いわゆるお客さん用に、ほ、保管していたものを、車につめて、そのとき、軽、軽の自動車乗ってましたけど、軽の自動車に全部つめて、でその火災があった蕨の集落の人たちのところに,持って行って、で、「使ってください」と向こうに贈った。そして日曜日に、次の日曜日にね、火災が起こった時からの最初の日曜日に、信者の人たちに、教会に来た人たちに「皆さん、火災で困っています。布団ありません。毛布ありません。皆さんもう焼けてしまいました。だから皆さんの所に使わない、余っている、余裕がある布団、毛布、枕、まあ、シーツとかとにかく何でも良いですから協力できるものを出してください」と言って、そして集めて、その、また、その火事にあった人達のところに持って行った。
グウィン・マクレランド
そうですね。
中村満
それでね、そう、その出来事が
グウィン・マクレランド
それで、ああ久賀島で、あの、こういう事見てから、もう、ちょっと認めて...
中村満
それでね、雰囲気ががらっと変わった。つまりその、仏教の人たちとか神道の人たちは、キリスト教だぁと。であの、こちら側のあの表現でいえばその、キリ、キリシタンね。キリシタンだぁということで馬鹿にしていた、軽蔑していた、あるいは差別していた、だけど、一番困った時に、火事があってね、一番困った時に、誰が一番助けてくれたか、それはキリシタンだと自分たちが軽蔑していて、軽蔑していた人が、人達が、一番助けてくれた。それで、雰囲気がもう、逆転した。がらっと変わった。
グウィン・マクレランド
1980ですか?
中村満
いやいや80までいかない。⋆ ええと、]、ええと70,70年くらいか、あの、資料見ればね、あの出てくると思います。ちょっと調べればね
⋆ [昭和]57だから実際は昭和47年、1972年]
[抜けた部分]
グウィン・マクレランド
その時、中村、
中村満
中学、中学一年生。
グウィン・マクレランド
中学一年生の時、でしたから、あのよく覚えて
中村満
そうそう、良く覚えている
グウィン・マクレランド
そうですね、はい、ええ
中村満
でそれが、私に、私の、まあ理解では、それは私にとって一番ね、良い体験だった。
グウィン・マクレランド
そうですね
中村満
つまりその、お互いに差別したり、対立したりさ、そう、そういう、こ、事じゃなくて、お互いに助け合って生きると、いう事を一番よく証明してくれた出来事だったし、で、そのことを一番、この、まあ伝えてくれたっていうか、教えてくれた良い神父に出会った。
グウィン・マクレランド
はい、なるほど。ええと、じゃあ、その前は、あの、そう差別、意識の間はあの、何かまあ、ええ、説明用に、何か覚えていますか
中村満
だから、それは、まああの、あまり言いたくないんですけど「笑」
グウィン・マクレランド
言いたくない、言いたくなかったら、あ、良いですが。
中村満
いや、いや。言いたくないんですけど、その、説明すると、石を投げられていたんです。通学の時。学校、学校のその帰る時とか、行く時に、まあ、小石ですけど、こう、投げられていた。子供たちから。だけど、だけどそれは、お、大人たちが、そそのかしてさ、「投げろ」という風に言ってたということです。
グウィン・マクレランド
ああほんと
中村満
子供たちはほら、一緒に学校に行ってるから、あまりそんな事しないはず。だけど、大人、大人たちが「あぁ!」って(ばかにする)さ、雰囲気だったから、子供たちもその、面白がってそうしてた。
グウィン・マクレランド
なるほど。はい。
中村満
という事です。だからそういう雰囲気がね、それががらっと変わった。そこがねやっぱ大事なテーマで。
グウィン・マクレランド
ほんとですね。
中村満
で、キリスト教的に言うとその、愛の業(わざ)の実践が、やっぱりその、人を変える。社会を変える。
【抜粋終わり】
推奨引用元:
中村満。「フランスの宣教師、子供の殉教者、愛の実践」会見者、グウィン・マクレランド。五島の潜伏キリシタン関連世界遺産、Japan Past & Present (2022年11月14日)。