宮本フジエと宮本實男
「牢屋の窄崩れについて」
インタビュー:
令和4年11月17日
場所:
久賀島、五島列島、長崎県
長さ:
約14分
会見者:
グウィン・マクレランド (GM)
取材相手1:
宮本フジエ(みやもとふじえ)
昭和25年久賀島外上地区生まれ、当時72歳
取材相手2:
宮本實男(みやもとじつお)
昭和21年久賀島永里地区生まれ、当時74歳
以下は五島列島で録音されたインタビューの筆記録と音声です。オーラルヒストリーは話された個人の記憶をもとに構成されます。これは個人的な意見であるため、最終的に検証されたものではなく、また出来事について完全な形で提示することを意図したものではありません。この筆記録に含まれる資料は、調査研究、教育、その他の非営利または非公共の目的の範囲で自由に使用できます。いかなる場合においても、素材の著作権を侵害する行為を行ったり、許可したりすることはできません(例:複製、出版、上演、伝達、翻案、商業レンタル契約の締結、または第三者にこれらの行為のいずれかを許可すること)。資料に関するさらなる権利(出版、複製、放送、または演奏する権利など) については、ジャパン・パスト&プレゼントに問い合わせが必要です。
宮本フジエと宮本實男とのインタビュー
インタビュー記録
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【セクション1: 殉教、拷問】
グウィン・マクレランド
そうですね、え、あの、じゃ、宗教的に、あの、大事なところといえば。
宮本フジエ
ま、 [早く] 牢屋の窄(さこ)やろうね。
宮本實男
[賛成] ま、もう一番大事なところちゅうのは牢屋のさこの殉教地がやっぱ り一番。「GM:今日行きました。」で、あの、私の生まれたところにも永里教会と言ってのが昔あったんですね。永里教会。
結局、あの、久賀島には5ヶ所、教会あったわけですね。一番多い時はね。浜脇教会(はまわききょうかい)。永里教会(えいりきょうかい)、細石流教会(ざざれきょうかい)。そこから大開ちゅうところに赤谷。。。赤仁田教会(あかにたきょうかい)中のがあって、で、五輪教会(ごりんきょうかい)。今、旧五輪教会というけど、それが元は、五輪教会だった。で、五カ所あったわけですよね。で、そこに、私は永里教会に所属してた。ま、巡回教会やったけどね。
グウィン・マクレランド
じゃ、あの、特に、その殉教について聞いてもいいですか。かまいません か。ええ、やはり、奈留島から来ると、何か、そちらの方が、ま、頭が島(カシラが島)でちょっとあったんだと思うが、え、奈留より、久賀があの、大変とよく聞かれてて、また、いくと、本当に辛いですね。あの、本当に難しいところですから、ええと、ま、それについて、ずっとたくさん話を聞いたりしたんですか。あの、子供の頃でもそれについてよく聞きましたか。
[静か]
宮本フジエ
牢屋の窄についてはね。
宮本實男
ま、あの、そうですね。
宮本フジエ
あそこ に書いちょったですよね。石碑にね. 石碑の横にあのほら、看板にね。
宮本實男
あ、石に書いてた。
宮本フジエ
殉教者。
宮本實男
石に殉教者、
グウィン・マクレランド
殉教者の名前と年齢?
宮本實男
じゃなくて、
宮本フジエ
あの、入ったところに、階段から上がってきたところに、あの、説明が書 いてあったです。説明が書いてあったですね。
グウィン・マクレランド
あ、そうそうそう。
宮本實男
うん、明治元年、は200人「以上がろうに入られた」亡くなったというようなね。⋆ でま、そういう教えは小さい時から、親から、最初は親から聞いていたんですよね。
⋆ Correction made to interview here where Jitsuo pointed out he had said more than people died, but he meant more than two hundred were put into the jail.
宮本フジエ
あそこには水責め。算木責め、とか書いてとるよね。
宮本實男
ある、ある
宮本フジエ
あの、水をね、あの腹にいっぱいあの、入れられて、そして、腹いっぱいになったら、今度こう腹を押してからしながらね。何回もそんなさせられてね。。。。
[単語リストに 水責め、算木責めの説明を見てください]
宮本實男
ま、色々な責め苦を、受けていたということです。そういうとはもう小さ い時からま、最初は親から聞いてた。それから後では、書物とかで、ある勉強はある程度さしてもらった。そういうふうなあの、感じなんですよね。最初は親から聞いて。。。。
【セクション2: キリシタンはみんな牢屋に入れなかった】
グウィン・マクレランド
実男さんのあの先、言ったように、あの、こちらの教会が特にそういう崩 れで、ええと、よくなかったんですか。
宮本實男
?
宮本フジエ
そこの教会は、教会というよりは、あの、見張りの人が見えるところに、あの、なんか、牢屋をつくったね。
グウィン・マクレランド
見張ら。
宮本フジエ
あした、藤原邸に行くんでしょう。。。藤原邸に番人がおった跡ですね。そこから見えるところに牢屋を作って。
宮本實男
ま、牢屋を作ったという
宮本フジエ
だから、そこに教会がなかったですね。
宮本實男
牢屋窄にはね、牢屋の窄は教会はなかった。
グウィン・マクレランド
あ、前はなかった。ですが、あのそういうふうに、覚えられるように。
宮本フジエ
。。。土地として。。そう、そうそう。
グウィン・マクレランド
じゃ、ま、そうですね。まだ本当に感じますね。
宮本フジエ
[はっきりしません。静か]
宮本實男
ま、言って、ま、迫害、結局、私、こっちの先祖は牢屋に入れられてたんですけど、私の先祖はあの、やっぱりあの、潜伏キリシタンですけど、外海地区からやぱり来てたんですけど、私のその先祖は牢屋に入れられてなかったです。ちゅはなぜ入れられてなかったかというと、結局、その藤原邸、ね結局今藤原家がその頃、福江の殿様から結局久賀島を預かってた。て郷士、位は郷士ぐらいやってたんですけど、もう全部、あの例えば なんというかね、例えば犯罪した人悪いことをした人も全部そこに詰められていたのを、牢屋とかも仮牢屋もいうのも作ってたんですね。
昔は、塩とか砂糖とか米とかというのは、配給というかなあ、そういう状態だったのを、それも藤原家が久賀島は受け持ってたんですね。五島の殿様から預かっていたんですね。で一切。そういうことで、でそこに、なんでうちの私の先祖はその牢屋に居られなかったかというと、結局はその働き蜂、ちゅって、あの、うちの先祖がひいじいちゃんくらいかと思うんだけど、ひいじいちゃんかひいひいじいちゃんかよね。くらいかと思うんだけど、その三十なん歳ぐらいで、バリバリの働き人やったんです。で、百姓とかなんとか色々やらされて、牢屋に入れるより、働かした方が良かったんで、結局、働かせた。
グウィン・マクレランド
そういうええと、ことをこうちょっと無視して、続いたように。
宮本實男
そうそうそう、入れないで、牢屋に入れないで、働かせたわけなんでねえ、で、責め苦は家では受けていたんです。家では普通大黒柱とかという、主な柱は一番
グウィン・マクレランド
大黒柱、で、向こうのところにあったんではありませんか。大徳の柱がむこう、向かいにありませんでしたか。代官の、
宮本フジエ
代官という。
宮本實男
代官、藤原邸は代官所を兼ねてたということですよね。明日行くところですね。今交流センターになっていますけど。
宮本フジエ
で、そこで、この人の先祖がそのそこで働いていたということで。
宮本實男
だから家族は牢屋に入れないで、結局、働き人として使っていたということです。もうほとんどの家族はもう、潜伏キリシタンは久賀島にいる人はもう、ほとんど全員といういいほど、ほとんど入れられてたんですね。
グウィン・マクレランド
その時、ほとんどの人、牢屋に入れられたけど
宮本實男
潜伏キリシタン、私の先祖が潜伏キリシタンだったがが結局入れられてない。
グウィン・マクレランド
じゃ、それはちょっと珍しい
宮本實男
そうそうそう、あの、いや、永里地区の人はね。かなりの永里地区の人はね、かなりやっぱり入れられなかった人はいた。
宮本フジエ
でも、入れられない方の中には、もうカトリックをやめるっていって入れられなかった人もおるとやろう。帰って、禁教令がアレしてから、また復帰して、カトリックにね。信仰守った人もいるけれどね。
グウィン・マクレランド
はい、はい。そうですか。
【セクション3: 牢屋の窄の記憶にとどめる】
グウィン・マクレランド
じゃ、あの、フジエさんの方はご先祖がこう捉えられたから、それについて何か聞きましたか。それとも、大体、あのこう、
宮本フジエ
だから入ったから、牢屋の窄のあの、記念碑のなかに先祖のあれが遺骨がね。お、納められてるということは聞いていますけどね。。。
グウィン・マクレランド
はい、はい、ええ。じゃ、誰かわかるということですよね。
宮本フジエ
名前は[笑] いうと、覚えることもなかったし、覚えようともしなかった。中山誰とかという、書いちょったけどね。[笑]
宮本實男
あの、大体殉教100年祭の時に、その久賀島で例えば迫害にあった人、牢屋に入れられた人の中であの、名前がわかってる人、例えば、石碑がないと名前がわからなかったが、石碑があった人だけを今の、牢屋のさこのあの、牢屋の窄に行ったでしょ。行ったときに、前に、ほら、レリーフの中にあそこに納骨堂になってるんですね。で、納骨堂の中に、分かっている人たちだけを入れているん遺骨をね、集めてね。結局、十名じゃっただったと思うんですけど。十名。十名だけしか分からんかったんじゃね。殉教した人はま、42名とか43名とか言われてますけど、その中の十名だけの遺骨が牢屋の窄に安置しています。
宮本フジエ
昔は苗字が最初がなかったやね。
宮本實男
そうそう、苗字は最初はなかった。うん。
グウィン・マクレランド
それは100年のときにわかったことになって。
宮本實男
そうそう、わかった人だけ。ま、結局ほとんどの人が石碑をあげてなかったし、その明治元年ですのでね、石碑をあげてても、砂石とかなんとかで消えてしまってる。でなかなかわからない人がいっぱい居たんで、ま、40名の中の結局十名が分かってたんで、掘り返してね、それで、ほって、各地区の墓所から掘ってきて、で、牢屋の窄に安置しているということなんです。
宮本フジエ
まさごろうじゃね。[JM:まさごろう?]まさごろう、確かにまさごろうちゅうた名前、じいちゃんがまさごろうという名前、上の平(かみのひら)。
抜粋終わり
推奨引用元:
宮本フジエ、実男。「牢屋の窄崩れについて」会見者、グウィン・マクレランド。五島の潜伏キリシタン関連世界遺産、Japan Past & Present (2022年11月17日)。